江青日誌

夢は野山を駆け巡る

夏になると思い出す事

夏になると思い出す事、それは、叔母の死です。綺麗な人でした。電電公社からNTTに変わった時に、岩手支社で高卒で女性で初めて課長になった人でした。課長になってから、毎日深夜残業が続き、気がついた時は、余命3ヶ月。仕事に殺されたようなものです。当時、私は大学4年生でした。ちょうどGWで帰省していて、妹である母と私と3人で、岩手で一番のデパートで入院の準備しました。母と叔母は、もうそれが病院から帰って来れない事をわかっていたようなのですが、私は大好きな叔母と母と買い物に行けた事が楽しく、そして、きっとそんなに大変じゃないのだろうと高をくくっていました。
7月になって、一人で病室を訪れました。叔母の病状がそれほど逼迫している事は知りませんでした。死は彼女の体を蝕んでいました。会った時、叔母は骨と皮になっており、声を出す事すら、全身で話をせざるを得ないほどの状況でした。私の言葉を聞くというよりも、自分が女として、母として、社会人として、言わなければならないと思っている事を、話して終わりたい!そのために生きているようでした。私自身は、叔母がそういう状況だということ事態に、動転していました。彼女は私に「女は仕事をしなければならない。働かなければならない。社会に出ないと行けない」と何度も何度も言いました。それまでの、私の中の叔母は、いつも人の人の話を微笑みながら聞いている人でした。叔母が自分の意見を主張をしているところを見た事がありませんでした。誕生日になると、ケーキを送ってくれ、絵が書くのが好きで、笑顔が知的な人。そして、本当に優しい優しい気持ちで包んでくれる人でした。その人が、亡くなる前に、仕事に殺されたと言っても良いのに、これから就職しようとする私に、なんでそんなことを言うのでしょうか?
その時から2週間足らずで叔母は亡くなりました。棺の中の叔母は、本当に綺麗でした。やっとぐっすり眠っている顔をしていました。47歳でした。
不思議なもので、命月の7月になると叔母を思い出します。私は、男女雇用機会均等法の第1年生。女性が働く事の価値を戦っていた時期を経て、女性が働くことが当たり前の世の中に、建前上そうすると宣言された年に社会に出ました。先達がバトンを渡してくれたからこその権利を謳歌しています。名もない先達に感謝しつつ、最後に叔母が私に言いたかった事は何だったんだろうかと、東京の街を歩きながらふと思う自分がいます。
今日は長崎の原爆の日。合掌。