江青日誌

夢は野山を駆け巡る

「戦後70年に想う かまいしの昭和20年 - 艦砲射撃を生き延びて」

父が「戦後70年に想う かまいしの昭和20年 - 艦砲射撃を生き延びて」と題した小さな冊子を8/6に刊行しました。

長崎の原爆が落ちたその日に、釜石では2回目の艦砲射撃が落ちました。当時、戦争も終盤でもうすでに空路、海路は塞がれていました。外からの補給がない状態で戦争を続けるためには、釜石は鉄が採れ、製鉄所がありましたから、徹底的に狙われたのだと思います。艦砲射撃を受けた時に、父は釜石国民学校5年生だったそうです。昨年、岩手県ユネスコ協会連盟から「岩手県でも繊細に遭遇した町があること、特に、釜石が艦砲射撃により大きな被害を受けたことを、県内の皆さんに広く知ってもらいたい」という講演依頼があり、話をしたことをきっかけに、かまいしの岩手県沿岸広域振興局での2回目の講演が行われ、それを元に冊子を作ることになったそうです。
内容を読むと、講演の書き起こしということもあり、隣で話しかけられるような生々しさがありました。釜石が日本の海図1号だったほど、釜石の鉄に明治政府が期待していたこと、採れた鉄鉱石を運ぶために、日本で3番目に鉄道が引かれた街だったこと。世界3大漁場の中に釜石があることなど、日本で最初の西洋式高炉の出来た成り立ちなと、釜石の豆知識が掲載された後に続く、釜石の被災の状況。8/9に、第1回目の艦砲射撃で被災した製鉄所が、再稼働する日だったこと。外人捕虜市民の方も亡くなられたこと。淡々とした記載や写真が、逆に生々しく、見ているだけで涙が出てきました。「鉄」が採れたことで、日本で特別に豊かな田舎だった我が釜石。近代化の黒歴史は、だいたい釜石にも起こっています(韓国や中国の方の強制労働。外国人捕虜。戦後の公害などなど)その現実を思い出すとともに、自然災害は、減災は出来ても今のところ人の力で起きないようにすることが出来ませんけれども、戦争をするかしないかは人間が決めることですから、戦争という言葉が辞書の中にだけにあるように、私一人の力では何も出来ませんが、心をしっかり持って生きたいものだと思いました。(個人的には、経済活動それ自体がある意味戦争みたいなものなので、戦争はその中だけでいう思いもあります)
釜石のこと、三陸のこと、魚とのこと、紐の結び方(父は漁の網の専門家でもあります)などなど、こんなに釜石のことを愛し、海を愛し、何でも教えてくれる父が、大事に思っていることを、何でもいいから残して欲しいとずっと思っていました。父の知見が誰かの役に立つような状態になるといいと思っていたのです。本来であれば、出版社に務めている身としては、口だけではなく手を動かす方面で参加すべきだったのですが何も出来ないままでした。自分でも残念でしたが、下手に口を挟まなかったことで、ちゃんと8/6に出来上がったとも言えるかもしれないので、父には申し訳ないですが、そう自分には言い聞かせてます。願わくば、私はこの冊子を無料の電子書籍などで配れるようにすることが、私に残された役割といったところでしょうか?
無事に、戦後70回目の艦砲射撃の日に間に合ったことに、関係者の方々のお力添えに感謝しつつ。

参考:釜石の艦砲射撃(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E7%9F%B3%E8%89%A6%E7%A0%B2%E5%B0%84%E6%92%83