江青日誌

夢は野山を駆け巡る

3.11を迎えるにあたり:Hack For Japanスタッフとして個人的なふりかえり



3.11から6月末までのことを思い出すことを避けてきました。津波の映像、出来るだけ見ないようにしてきました。震災後、何度も釜石のことを書いてくれと、いろいろな人に言われましたが、書けませんでした。そもそも、釜石に対して、三陸に対して、日本に対して自分の思いをまとめるのは難しい。複雑。でも、震災を経て何をこの1年やってきたのか、自分自身を棚卸しするために書いてみることにしました。
Hack For JapanのスタッフMLには、入れていただいたのは、2011/3/16。よしおかさん(id:hyoshiok)に推薦いただいたことに始まります。そのMLには、Googleの及川さん、山崎富美さんに始まって、セールスフォースのCTOの及川さん、マイクロソフトの砂金さん、アマゾンの玉川さん、はてなの近藤さん、sinsai.infoを立ち上げた関さんなどなど、もう業界の英知が続々と入ってきており、サイトを立ち上げ、3月にハッカソンをやろうと、及川さんやふみさんがダダダダダダダーと準備している状況でした。
ワタシはというと、面倒なことに巻き込まれたなあというのが当時の正直な気持ちでした。当時、親は生きていることがわかったものの、大きな余震が被災地を揺らしている中、電話は通じず、親戚を含めて地元の安否がまだわからない状況、とにかく、会社の中の震災対応、年度末対応をやりながら、岩手のため家族のためにできることを瞬時の時間で判断しやりやりやっつけていっている最中。デベロッパーで無いワタシが、Hack For Japanに携わって役に立つことがあるのか、震災間もない段階で被災地から遠く離れたところで行われようとしているこの活動が、一体何の役に立つのだろうという思いも正直ありました。当時の東京は「買い占め」が横行中で、3.11以降首都圏に住んでいる人の災害スキルの低さに、個人的に心底がっかりしていた時期でもあったため、これ以上自分の住んでいる地域の人たちにがっかりしたくないという思いもありました。そんなわけで、ハッカソンの三連休は、やっと通じるようになった電話を通じて両親から「今これがあったら嬉しい」と言われたものを探して購入して送ることを優先し、自分が出来うる最低限の協力のみとさせていただきました。結果的に、ハッカソンは、大盛り上がりで終了したことを知り、せっかく入れていただいたのだからまずは否定せずにこの状況に飛び込んでみて、私に出来ることがあるか考えてみようと思ったことからワタシのスタッフ人生がはじまりました。
話が逸れますが、私自身は18歳で大学に入るために故郷岩手県釜石市を出てから、釜石のためにワタシが出来ることは何も無いと絶望をして生きていました。つまり、釜石に帰ること、釜石のおいしいものを紹介して食べてもらうこと、そのぐらいしか釜石のために出来ることが無いとずっと思っておりました。でも、震災の時に、インターネットでワタシが知り得た情報(例えば、岩手県のサーバーが不安定とつぶやいたら、ミラーサーバーが瞬時に2台立ち上がったとか、小包は届かないけど普通郵便だったら送れるから小分けに分けて送れる地域があるとか、佐川急便がいち早く被災地にものを送れるようになったとか。Twitterをやっていると余震があったときに自分の安否をたくさんの人に伝えられるよ。アマゾンが被災地からの出店は2年間無料などなど)をTwitterに書くことや、リアルであった人たちに伝えている中で、自分が仕事で使っているインターネットで知り得たことを教えることで、故郷に役に立つことを体験したのです。2重の意味で救われました。
やっているうちに、岩手県全体のインターネット使いこなし度を上げると、セーフネット的な機能が自然に生まれていくのでは?という仮説が浮かんできました。そのためには、まず、自由に乗りこなしている人、その仕組みを使ってサービスを作っている人が岩手に来ていただける活動をしたいと思いました。がんがんやっている凄い人のそばに居るとそれだけで感化していくことは、デブサミを通じて体感済です。そんな活動を、Hack For Japanを通じて出来ればと思ったわけです。もしかして、Hack For Japanの本来の活動主旨とは異にしたかもしれません。アイディアソン、ハッカソンを通じて、その場で問題を捕まえて解決していくというハッカー的アプローチよりも、一種異業種交流的な場を通じてハレーションがおこることを期待するというアプローチ。それが芽になるかどうかわからないけれども、少なくとも3年間は続けたらどうだろうかと思い、1回目のスタッフミーティングでそうお話ししたことを覚えています。ここまでが4月上旬。
それから約1年。いろいろなことがありました。以下、五月雨式で個人的なHack For Japanの活動に対するKPTです。ネットで公開することに意味があるかどうかわかりません。自分の備忘録として、1年の活動の禊として公開いたします。なお、活動が被災地の役に立っているかということですが、まだまだ全然サービスが立ち上がっていないので全然だと思ってます。2周目、分をわきまえつつ自分の出来ることを続けていこうと思います。

Hack For Japanスタッフとしてのふりかえり
-Keep

    • Hack For Japanのスタッフの皆さんのプロジェクトの進め方、会議の進行の仕方、イベントのファシリテーションなどなど、とても勉強になりました。コミュニティに入ると、普段仕事でご一緒することが無い人たちとプロジェクトを共にするので、なんらかしかの学びがあるものですが、Hack For Japanのスタッフの処理能力の高さと、マインドのタフさはとてもしびれました
    • 岩手県にコミュニティの足場が出来たこと。他のHack For Japanの支部のようにリアルHacker風味ではなく、Life Hack的な試みの積み重ねを作っていこう的コンセプトではありますが、同調してくださる岩手の人たちも何人か現れて、9ヶ月で4回のイベントが開催できそうなこと。
    • Hack For Japanのスタッフの方々に岩手に来ていただけたこと。繰り返しになりますが、彼らのマインドの強さと処理能力の高さを目の当たりに出来るという経験を岩手で実施できたこと。
    • Hack For Japanのスタッフが岩手入りするときには、単なる視察ではなく、被災地の暮らしを知るきっかけや、普通のボランティアに近い体験ができるように心がけた。それは、震災で忙しい中、地元の人が協力してくれたから。本当にありがたかった。
    • 遠野まごころネット、@リアスNPOサポートセンター、IWDDの存在。活動をともに出来たこと
    • 釜石の実家も旦那様も全面的に私の活動を応援してくれたこと。家族の絆が深まったこと。
    • 活動をきっかけに、縁遠くなっていた釜石の旧友たちや、岩手でネットを使いこなしている人たちと出会い、連絡を取り合うようになったこと。故郷との再調印した気分。
    • 7月遠野まごころネットでのハッカソン時に掲げた3つのプロジェクトの中「仮設ネットカフェ」「ICT教育のための学ぶ場所」が釜石に実現できた(できそうな)こと(私は口だけで実際に地元でプロデュースされたのは、@リアスNPOサポートセンターさんです)
    • 他の支援活動を間近で感じられたこと。「ITで日本を元気に佐々木さん、「助けあいジャパン石川さん小和田さん「RCF復興支援チーム」藤沢烈さんなど、ヤフーの高橋さん、などなど、震災でも無かったらお会いすることすら無かった凄い人たち。
    • 高校の修学旅行で訪れた会津若松の印象が悪く、二度と福島県に足を入れないつもりで生きてきたが、Hack For Fukushimaで会津若松の地域や人にぐっときたこと!
    • 東北の人たちの飾らない笑顔。そこはかとない優しさに勇気づけられた。priceless!

-Problem

    • 岩手県のミラーサーバーを立ち上げた経緯のレポートを2011年7月に書き始めたのだが、3.11当時のことを思い出すのがつらく、2012年3月に岩手県庁に提出したこと。実際にミラーサーバーを立ててくださった、さくらインターネットの田中社長、松本さん、JWAZUGの冨田さん、亀田さんの恩に報いるタイミングを逃してしまったかもしれない。しくしく。
    • ボランティアと仕事との兼ね合いに悩んだ1年。どっちもやりきりたいと思いギアを変えると、体を壊してしまうという循環だったような(涙)
    • 被災地向けの補助金の枠組みで、サービスを立ち上げるなど出来たらよかったのだが、如何せん私に国を相手にお金をもらった経験がなく、また実業のとの兼ね合いの中で、踏み込むことができなかった。やりたい人に投げればよかったか。
    • 当然ながらお金を使いました。当初は月1回、今でも2ヶ月に1回は被災地入りしているので(苦笑。

-Try

    • ハッカー魂こそが日本を救う」という旗の本、粘り強く続けること
    • ずっと被災地にいることは出来ないので、出来ることは限られている。身をわきまえて行動すること
    • 地元には雇用を、被災地以外には情報をテーマに、Hack For Iwateの2012年度の活動目標をやりきる