江青日誌

夢は野山を駆け巡る

希望の火を絶やさずに

3/25に、紀伊國屋書店の藤本仁史常務(62歳)がお亡くなりになりました。風の便りだと数日前から入院されていたそうだ。2月末に、取次さんへ同行させていただいた時は、お元気そうでぴんぴんしていらっしゃったのに。でも、年末にお邪魔した時には、土日もなく働いていてとてもお疲れのご様子だったので、出版業界内の改革の中で、お体に無理が溜まっていたのかもしれない。
週末は、嘘であって欲しいと、とにかく誤報であることを祈った。でも、本当であることを友人から告げられ、土日はため息と涙で暮らした。
藤本さんに初めてお目にかかったのは、忘れもしない2015/6/26。アマゾンの時限再販が始まった日。「各社どういう意向で参画したのか、ヒアリングさせてほしい」というお電話を頂戴し、目黒の本社にお邪魔したことから。我々の説明をじっとお聞きになっている目が印象的だった。
その後、7/1の紀伊國屋書店の高井社長によるPMIJの出版流通の改革の講演会、7/23のJPOのドイツ出版業界視察ツアー報告会、7/31に開催された出版社向けのPMIJの説明会、と立て続けにお目にかかる機会を得、藤本さんを通じて紀伊國屋書店さんが、また、PMIJさんが、日本の出版業界の変革をどのように進めていきたいのか、お話を聞くことに。アマゾンの時限再販も業界変革の大きな波の一つですが、PMIJさんがやろうとしている改革は、抜本的でかつ今の出版業界のペインをきちんと分析したうえでの骨太なプランでした。私自身も、ドイツ出版業界視察から帰ってきたばかりだったこともあり、高井社長と藤本さんの紀伊國屋書店ツートップから出てくる改革のお話を、ワクワクしながら拝聴していました。また、早々にぶち上げるだけではなく行動を起こし、ある意味社会現象化させるようなところまで持って行っているところに「さすが紀伊國屋書店!」と感動を持って拝見していました。
一方で、藤本さんから部下の方々をご紹介いただき、紀伊國屋書店さん中のいろいろな部署の方にお話をお聞きする機会を得ました。そのたびに紀伊國屋書店さん人材の厚さと、持っているインフラの強さを強く感じ、企業としての強さはこういうところからでてくるのだろうなと、お打ち合わせが楽しみでしかたありませんでした。
紀伊國屋書店さんは、社内の改革は見えてきたからこそ、出版業界改革への着手だったのだと推察しています。その大航海に出た矢先の訃報。藤本さんには、もっともっと、出版業界を変えていっていただきたかった。私も出版社の末端の人間として教えていただきたいこと、見せていただきたい世界がたくさんありました。私にとっては、希望そのものだったので、もう、シオシオでヘロヘロな気持ちです。
紀伊國屋書店さんも、今後の人事など大変だと思いますが、どうか藤本さんの意思を継いで、改革の流れが途切れないことを切に願います。
昨日のあられは、きっと藤本さんがふらせたものだと思っています。あのあられのお陰で、少し藤本さんの死を受け入れる気持ちになりました。短い時間ではありましたが、藤本さんからいろいろなことを学ばせていただきました。お礼を直接言えることが叶わなくなってしまいましたが、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

VSUG DAY - THE FINALを終えて


2005年11月に活動を開始したVSUG。こちらの運営事務局を設立段階から携わってきましたが、事前のアナウンス通り、2016年3月5日のVSUG DAY-THE FINALをもって活動停止となりました。
最後のイベントになったVSUG DAY-THE FINALは、手前味噌にはなりますが、すごい良いイベントになったように思います。発起人の北川さん、基調講演の井上章さんはじめスピーカーや受講者の人達が、どんなにVisual Studioが好きか、どんなふうにソフトウェア開発に向き合っているのか、想いのたけをVSUG DAY-THE FINALに届けてくださったように思いました。
当初、開催を計画していたスケジュールよりも大分遅らせての開催になってしまい、特に会場提供を頂いたマイクロソフトさんには多大なご迷惑をかけてしまったのですが、その分、コンテンツが熟成し、かつ、タイミングを同じくして榊原さんがMSのCTOのタイトルで登壇いただけることになったりと、このトラップは神様に仕込まれていたのかとも思うほどです。
私個人で言うと、翔泳社に入る前の会社からマイクロソフトさんの担当をやっていて(1993年)、翔泳社に入ってもマイクロソフトさんの担当をつい最近までやっていました。Visual Basic Magazineの広告主の方からの要請で設立されたActiveXベンダ会、マイクロソフトさんからのお声がけで始まった、PASSJVSUGは、設立から事務局として、inetajはVSUGの中の人として設立にかかわらせていただきました。そんなわけで、これで全てのマイクロソフトテクノロジーコミュニティ事務局業務から卒業することになります。途中途切れたりはしつつも、足掛け20数年やってまして、個人的にはプチ定年を迎えた気持ちで、正直ちょっと寂しいです苦笑。
VSUG DAY-THE FINALで発表された、スピーカーの方々の言葉を借りれば「加齢臭いっぱいな」昔話の数々は、いつもコミュニティの方々の発する言葉から「門前の小僧習わぬ経を読む」的に技術のトレンドを勉強させてもらっていた身としてはとても懐かしかった。また、Webの黎明期のコミュニティサイトの立ち上げと運用、イベント、掲示板、規約、収支報告、何よりも関わって下さる方々の思いの調整などなど、コミュニティを運営する上で必要なことを、スポンサーや、コミュニティの皆さんに教わりながら必死に雪かきしていたことをまざまざと思い出しました。人生で初めてやった仕事の多くは、コミュニティの運営から発生していて、会社の中には当時この辺のノウハウがなく、20代後半から30代の私にとっての一番の上司はコミュニティの方々だったと言ってもいいかもしれません。ちゃんとやれたか、今でも思い出すと胸の痛いこともあります。
それでも、VSUGの運営委員の方々と事務局は、大きな揉め事もなく、キャンディーズの解散武道館ライブのようにこの日をむかえることが出来、本当に清々しいことでした。また、当日の運営やっていても、手が足りないところにみんなが自然に動ける人達ばかりで、とても楽しい時間でした。スピーカーや着てくださった方々とも、久しぶりにあっても「ようよう」「やあやあ」でいけるのも楽しい。そうそう、VSUG DAYは大阪での1回を除き全て出ているのですが、最初から最後まで公演を聞いたのは今回が初めてで、それぞれの方々が、今技術をどう見ているのか話をまとめて聞けるのも嬉しい時間でした。
そんなVSUG DAY-THE FINALの場を見ていたかのように、最後のマイクロソフトの伊藤かつらさんから「ぜひVSUGは同窓会やってくださいw」とのビデオメッセージ。VSUGは、Facebookページのみ残し、それ以外は徐々にクローズドしていくことになりそう。同窓会イベントなどを3年後ぐらいに気が向いたらやるかもと、中の人が言ってましたので、VSUGFacebookページに是非「イイネ!」をお願いします!
終わるのに「イイネ!」の話で終わるところがなんとも妙ですが、このまま去るのもお名残惜しいので、ゆるーくむりなく気が向いた時に会えるといいなと個人的にも思ってます。
写真は朝一控室にいたメンバーのみを撮影した運営委員の写真。運営委員の奥津さん、福井さん、杉下さん、新村さん、ちゃむ、沼口さん、原水さん、関くん、フォーラムリーダーの皆さん、スタッフの皆さん、そして、事務局を一番長く担当してくれた伊藤さん、お疲れ様でした!

VSUG Facebook Page
VSUG DAY-THE FINALイベントページ
VSUG DAY -THE FINAL-&「VSUG新聞」(自主制作版)を大野さんが作ってくださいました!

ITエンジニア本大賞に投票してほしい理由!(2016.1.12迄)


ITエンジニア本大賞」と題したアワードを、2014年から開催してます。
優秀なITエンジニアであればあるほど沢山本を読んでいるなとデブサミのスピーカーを見て感じてました。優秀になりたい人であればあるほど。その話を社内の人にしたところ、どうしてもコンピュータ書はマイナーなので、もっともっと本や書いた人や作った人を盛り立てるために、また、ITエンジニアの感度が素晴らしいことを世の中にわかってもらうために、ITエンジニアがいいと思った勧めたい本を投票していただき、盛り立てていけないかと提案を受けた事がきっかけで、このアワードは始まりました。
特に、技術本だと、本業の傍らプライベートの時間を削って、役に立ちたい!世の中を変えたい!という思いのもと、書かれている著者や翻訳者の方は多いのではないかと思います。そんな苦行を経てできた本で支払われる原稿料だけでは、残念ながら暮らしてはいけないわけで。ITエンジニアがお世話になった本に、投票という形で恩送りをし、著者にもっと有名になってもらったり、いい本を広めたりするための装置にITエンジニア本大賞がなれればいいなと思いました。つまり、「名誉」という形で「恩送り」をしたいのです。また、本屋さんが減っている中で、ビジネス書・コンピュータ書を置いてくださっている書店さんと協業して大賞後フェアを実施することで、書店さんへの営業支援的役割も会社を超えて担いたい思っています。
夢は大きく!せっかくなので、ITエンジニア本大賞は、ITエンジニアにとっての直木賞芥川賞ぐらいになれれば、書店さんや著者さんに恩送りになるでしょうか笑。千里の道も一歩からですね。
2016/1/12が投票の締切です。皆様の清き投票をお待ちしてます!

ITエンジニア本大賞
https://www.shoeisha.co.jp/campaign/award/

XP祭り20015で 『「品切れは何故おこるのか?」 科学的に理解したい! 奮闘記』と題した発表しました

2015/9/12に早稲田大学理工学部にて開催された、XP祭り2015に今年も枠を頂戴し話をする機会を頂きました。エンジニアでもない私が場をいただけるのは本当にありがたいことです。
デブサミの頭を張ることから卒業し、出版販売へ社内移動して1年半。準備段階から考えると約2年、その間、私はずっと、デブサミを通じて門前の小僧習わぬ経を読むならぬ、スピーカーの皆さんから耳かじってきたアジャイル開発的考え方を思考のリズムにしてきました。そんなわけで、前回の「組織パターン」で未来をあぶり出す!の派生プロジェクトとして延々と対策している「品切れは何故おこるのか?」 科学的に理解したい! 奮闘記を今回お話させて頂いた次第です。
大規模品切れが起こった時に「品切れって戦地に物資を滞り無く送り続けないとおこるんですよねw」と言われてはっとしました。そうか!店頭はある意味戦地で、そこに切らさず、かつ効率的に送り続けなければならないのだと。というわけで、それから仲間とともに出版物流を研究した記録を今回まとめました。出版業界が長い方には当たり前な話かもしれませんし、ITエンジニアの方には興味を持っていただけるのかわからないのですが、デブサミを通じてIT業界にご縁を頂いた方々に、ちょっと遅い残暑見舞いのつもりで認めてみました!当日は、わざわざこのセッションを選ばれた方々が真剣に聞いてくださって、思いがけないフィードバックを頂いたりして嬉しくなってしまって、本当は公開するつもりはなかったのですが、なまいところをカットして公開することにいたいました。フィードバックを切にお待ちしてます!
今年になって、取次第4位の栗田出版販売民事再生申請、アマゾンの時限再販トライアル、紀伊國屋書店村上春樹の新刊配本、などなど、今までの出版業界のモデルに対するゆさぶりがおこっているように感じてます。この地殻変動のリズムもアジャイルのリズムに加えてしまって、サーフィンしていきたいと思っています。
最後になりましたが、発表の機会をくださった、id:kawaguti さん、発表資料が出来なくて煮詰まっている時に手を差し伸べ、ゼロからイチにする作業をコーチングしてくださった id:hageyahhoo (伊藤さん)、騎郎さん、見守ってくださったXP祭りのスタッフの皆さん(旦那様も含む)、会社の仲間、ポプラ社ロジスティックスの皆さま、お取引先の皆さまに感謝!この御縁は、ヒットでお返しできるように精進いたします!もちろん、NO品切れで!
写真は、恩師伊藤さんとお世話になった本を持ってパチリ!XP祭りは良い感じのゆるさで、その中にいることも含めて楽しい時間でした。ありがとうございました!

「黒い屍体と赤い屍体」〜立花隆と画家・香月泰男

凍りの掌KANO 1931海の向こうの甲子園戦争が遺したものシベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
昨日、何の気なしに、テレビを見ていたら、NHK EテレETV特集立花隆 次世代へのメッセージ〜わが原点の広島・長崎から〜」(2015/02/14放送の再放送)をやっていました。動画。ぐぐったところ、エムズの片割れさんによる完璧なまとめがありましたので、引用させていただきます。

この番組の中で、香月泰男の作品「一九四五」について、ナレーターはこう言う。
「・・・描かれているのは、中国からシベリヤへ向かう鉄道の線路脇にうち捨てられていた日 本人の屍体です。生皮を剥がれ、筋肉を示す赤いスジが全身に走った赤い屍体。教科書の解剖図の人体、そのままの姿だった。憎悪に駆られた中国人に殺されたに違いないと、香月は述べています。」
そして立花隆は言う。
「日本人は、すごく悪い加害者的な行為を中国人に対してしてきたので、戦争が終わった途端に(中国人が)手近な日本人をつかまえて生皮を剥いだりしたという、歴史的事実があった。香月さんは車窓から見たその屍体を「赤い屍体」と名付けて、日本人が加害者だったということをみんなが忘れてしまっていることが、香月さんの絵をずっと描かせ続けたひとつの動機ではないか」

香月泰男立花隆)著「私のシベリヤ」より
「日本に帰ってきてから、広島の原爆で真黒焦げになって転がっている屍体の写真を見た。黒い屍体によって日本人は戦争の被害者意識を持つことができた。みんなが口をそろえて、ノーモア・ヒロシマを叫んだ。まるで原爆以外の戦争はなかったみたいだと私は思った。私には、まだどうもよくわからない。あの赤い屍体についてどう語ればいいのだろう。赤い屍体の責任は誰がどうとればよいのか。再び赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか。
だが少なくともこれだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。」

そして立花隆は、
「この問題提起というのは、どうも日本人というのはあの戦争が終わった後、あの戦争の話というと、日本中に黒い屍体が転がっている話ばかりして、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキというスローガンをただどなっていれば平和がくる、という感じでいるが、それはちょっと違うのではないか」
と指摘している。

実は、私は自分の歴史観に自信がなく、日本軍が戦争をした地帯にはほとんど旅行に行っていないチキンな奴です。それでも、恩義のある方に乞われて、パールハーバーにどうしても連れて行ってほしいと頼まれ同行したことはありますし、沖縄の友人の結婚式に出席するため初めて沖縄に行った時には、新郎から是非見てほしいと言われ、沖縄戦地跡を訪れました。でも、まだ、原爆ドームを見たこともありませんし、長崎の爆心地も訪れたことがありません。もちろん、中国本土に自分の気持ちが中途半端のままいくのも違う気がして、出張で訪れた上海以外行ったことがないチキンっぷりです。

このテレビを見て、侵略した国が被害者側の報道をずっと見続けている国の矛盾を差し出された面持ちでしたまさに、私がチキンである理由は、ここにあるわけです。もちろん、日本の中で起こったことを正しく理解し、後世に伝える責任は国民としてあると同時に、自国がやったこと史実を知ることすら、政治や感情論の中に埋没し、なかなか今の日本で自分なりの歴史観を作ることが難しい状況にあると思っています。この番組は、その矛盾にストレートに賽を投げるものでした。
香月さんが語り、立花さんが筆記したという『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』は絶版、アマゾンのUSDで6800円でした。「黒い死体と赤い死体」の文章が読みたいです。願わくは、買いたい時に買えるように電書も出して欲しい。在庫や絶版の心配をしないですむようにしてほしい。ちなみに、このテレビを見た後、鶴見 俊輔著『戦争が遺したもの』を読みたくてアマゾンを見たら、在庫切れ。電書なし。電書化するのは権利の調整が大変だとは想うのですが、戦後70年に、出版業界は大事なことを伝える努力をしているのか?と少し悲しくなりました。余談の続きですが、『凍りの手 シベリア抑留記』Kindleで3巻まで無料。自分も戦時中台湾の高校が甲子園で2位になった歴史野球漫『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を沢山の人に目に触れる努力もっと読んでもらえるようになぜしなかったのか、悔いました。次は後悔しないようにする。絶対する!
6月に訪れたドイツは、自分たちのやった過ちを忘れない工夫が街の中にデザインされていました。ぜひ、立花隆さんには、もう一仕事!我々に「赤い死体と黒い死体」の意味を考え続けさせる仕事をしていただきたいです。そして、それを読みながら、右でも左でもない、新たな歴史観が日本に醸成され、我々のUIが変わることで、他国との関係も変わっていくことを願ってやみません

「戦後70年に想う かまいしの昭和20年 - 艦砲射撃を生き延びて」

父が「戦後70年に想う かまいしの昭和20年 - 艦砲射撃を生き延びて」と題した小さな冊子を8/6に刊行しました。

長崎の原爆が落ちたその日に、釜石では2回目の艦砲射撃が落ちました。当時、戦争も終盤でもうすでに空路、海路は塞がれていました。外からの補給がない状態で戦争を続けるためには、釜石は鉄が採れ、製鉄所がありましたから、徹底的に狙われたのだと思います。艦砲射撃を受けた時に、父は釜石国民学校5年生だったそうです。昨年、岩手県ユネスコ協会連盟から「岩手県でも繊細に遭遇した町があること、特に、釜石が艦砲射撃により大きな被害を受けたことを、県内の皆さんに広く知ってもらいたい」という講演依頼があり、話をしたことをきっかけに、かまいしの岩手県沿岸広域振興局での2回目の講演が行われ、それを元に冊子を作ることになったそうです。
内容を読むと、講演の書き起こしということもあり、隣で話しかけられるような生々しさがありました。釜石が日本の海図1号だったほど、釜石の鉄に明治政府が期待していたこと、採れた鉄鉱石を運ぶために、日本で3番目に鉄道が引かれた街だったこと。世界3大漁場の中に釜石があることなど、日本で最初の西洋式高炉の出来た成り立ちなと、釜石の豆知識が掲載された後に続く、釜石の被災の状況。8/9に、第1回目の艦砲射撃で被災した製鉄所が、再稼働する日だったこと。外人捕虜市民の方も亡くなられたこと。淡々とした記載や写真が、逆に生々しく、見ているだけで涙が出てきました。「鉄」が採れたことで、日本で特別に豊かな田舎だった我が釜石。近代化の黒歴史は、だいたい釜石にも起こっています(韓国や中国の方の強制労働。外国人捕虜。戦後の公害などなど)その現実を思い出すとともに、自然災害は、減災は出来ても今のところ人の力で起きないようにすることが出来ませんけれども、戦争をするかしないかは人間が決めることですから、戦争という言葉が辞書の中にだけにあるように、私一人の力では何も出来ませんが、心をしっかり持って生きたいものだと思いました。(個人的には、経済活動それ自体がある意味戦争みたいなものなので、戦争はその中だけでいう思いもあります)
釜石のこと、三陸のこと、魚とのこと、紐の結び方(父は漁の網の専門家でもあります)などなど、こんなに釜石のことを愛し、海を愛し、何でも教えてくれる父が、大事に思っていることを、何でもいいから残して欲しいとずっと思っていました。父の知見が誰かの役に立つような状態になるといいと思っていたのです。本来であれば、出版社に務めている身としては、口だけではなく手を動かす方面で参加すべきだったのですが何も出来ないままでした。自分でも残念でしたが、下手に口を挟まなかったことで、ちゃんと8/6に出来上がったとも言えるかもしれないので、父には申し訳ないですが、そう自分には言い聞かせてます。願わくば、私はこの冊子を無料の電子書籍などで配れるようにすることが、私に残された役割といったところでしょうか?
無事に、戦後70回目の艦砲射撃の日に間に合ったことに、関係者の方々のお力添えに感謝しつつ。

参考:釜石の艦砲射撃(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E7%9F%B3%E8%89%A6%E7%A0%B2%E5%B0%84%E6%92%83